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須崎市 観光絵葉書 [資料・須崎市]

高知県須崎市
昭和29年10月1日、須崎町、多ノ郷村、浦ノ内村、吾桑村、上分村の5か町村が合併して市制を施行した。この絵葉書は市政発足後、間もないころに発行されたものらしい。
                               (クリックすると大きな画像が表示されます)

タトウは、箕越の鉱石タンクや真珠養殖と思われるイケス。なぜか「SUZAKI」と濁っている。
以下いずれの絵葉書も白黒コロタイプ印刷に手彩色を施したもの。

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現在の須崎音頭は昭和44(1969)年に作られたが、それ以前から歌詞の違う須崎音頭があったようだ。
(絵葉書の表には一枚ごとに説明が書かれている。以下、文章、漢字とも原文のとおり)
錦浦湾
須崎港の東部に連る内海で戸島、神島、中ノ島を始め数多の小島岩礁が各所に点在し背面には遺跡と伝説に富んだ古墳、名刹など多く四季を通じ絶好の行楽地である。

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須崎港
外港100万坪、内港70万坪、水深40尺、1万屯級の巨船が自由に出入淀泊できる天然の良好で向山、鎮海、城山の三公園が囲んでいる。

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墫の滝
須崎駅西方十一粁にある墫の滝は奇厳絶壁に懸り直下百五尺を覆って日光淡く照らす夏季四囲は猛暑と雖も冷気身に迫って大町桂月の碑あり「大空に滝を仰ぎて昼寝かな」

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横波三里
山一つ距てた向い側は太平洋の怒濤が天に吼えているが、こゝは入江三里鏡のような静かな海である絵のような美しい風光のなかに史跡も多く鰹と真珠は日本的に有名である。

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鳴無神社
(重要文化財)千参百年前の創造で一言主大神を祀る。その建築は人工の限りを尽し樫彩色の社殿が横波三里の海に映る風情はまた格別である。

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砲台跡
文久三年異国の来襲に備えた砲台の元形をとゞめ県下唯一のものと指定されている。

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大谷の樟
(天然記念物)県立公園須崎湾沿岸の須賀神社境内にあり樹令千三百年見るからにものすごい巨木である。

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角谷の展望台
県立公園、須崎湾内絶好の展望所で雄大な海洋公園をほしいまゝに眺望できる。

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名門 久松家の墓所 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市多ノ郷甲 和佐田 の山中に 久松家 の墓所がある。
その昔、多ノ郷に栄えた名門で、津野氏分限帖にある中老26人の一人、久松三郎兵衛一族の墓所。                           (クリックすると大きな画像が表示されます)

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上の画像では左端に位置する石碑
古い資料では倒れた状態だったが建て直されている。「川越貞宗之後胤久松徳右衛門英侶之嫡子 法名五徹浄音居士 久松九郎兵衛侶直墓 行年四十五歳而明歴三丁酉七月十七日卒 次男陽庵侶重立之」 (明歴3年=1657年)

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一番上の画像で左から3番目は、 久松九郎兵衛侶直の妻の墓 「久松九郎兵衛侶直之妻 見室妙性大姉 行年五十二而?文五?正月廿七」 

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一番上の画像で左から2番目は、久松九郎兵衛侶直の嫡子の墓 「久松九郎兵衛嫡子 法名法了?信士 久松左五兵衛侶清墓 行年七十四歳而正徳三?年十二月十七日」 (正徳3年=1713年)

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ほかに、一番上の画像で右端は関係は分からないが、「雷山祐光信士」。 墓所には、これら4基の石碑のほかに石畝(いしぐろ)が4基ある。
また資料によれば久松の姓を名乗った墓所は多ノ郷地区に合計3ヶ所あるそうだ。

土用の丑の日 八千代 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市新町1丁目
八千代の店舗は、新町商店街の中でもひときわ軒高の低い木造二階建。
最初は大正5(1916)年に同市中町で開業して、現在の店舗に移転したのは昭和7(1932)年前後の頃らしい。

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店舗はそれ以前からあって、戦災をやり過ごし地震津波や風水害にも耐えてきた。おそらく100年前後の歴史がある建物のようだ。
営業中は 「御食事 八千代」 の看板が掛けられる。

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八千代の代名詞とも言える 「うなぎ」 は、いたってシンプル。 うなぎの価格が高騰した今年も、例年のように国産うなぎにこだわる。
他にもだしの効いた 「厚焼き卵」 など、昔から変らない味がある。

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開業当時から何も変らない竈(かまど)のある厨房。 うなぎや玉子焼きは炭火で焼かれる。
明り取りの天窓から、コンクリートの土間や、漆黒の梁や柱に光が射していた。

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続・金毘羅信仰 桑田山の灯明台 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市桑田山(そうだやま)にも3基の灯明台が残っている。
前回の吾井郷は平野部だが桑田山は山間部。 また3基とも年月日などの文字が刻まれていないのも特徴だ。
(参照 本ブログ 「金毘羅(こんぴら)信仰灯明台」 「金毘羅信仰 吾井郷の灯明台」)
                              (クリックすると大きな画像が表示されます)

(1)桑田山甲 東山にある灯明台
近所の方に教えて頂き歩いたが、何も無いので引き返すべく振り向いたら、木立に隠れるように灯明台があった。

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火袋はコンクリートで再現されているが、足元に古い石製の火袋の一部が置かれていた。

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(2)桑田山甲 堀越にある灯明台
国道56号線 新名古屋トンネル入口の手前から狭い市道をほぼ登りつめると、石積みの上に建つ灯明台が見えてくる。

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つたに覆われているが石製の火袋もきれいな形で残っている。

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(3)桑田山甲 千々川にある灯明台
国道56号線 千々川から谷へ下ると、橋のたもとの丸い岩の上に灯明台がある。

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火袋は木製で風情はあるが、老朽化が気になるところ。

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流されるがままに 極楽橋 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷 
極楽橋は弘岡と小浜の間を流れる桜川に架かっている。
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橋がいつから存在するのかは分からないが、徒歩で往来していた時代ここは 「極楽の渡り」 と呼ばれ、須崎と佐川を結ぶ幹線だった。現在も近道として重宝されている。

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橋は4本の一枚板からなり、幅44cm 厚さ11.5cm 長さは、岸に近い2枚は約6.3m 中央の2枚は約5.45m 全長は約23.5mになる。あとは3個のコンクリート製の簡単な橋げたがあるだけだ。

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雨が降り水かさが増すと板は流されるが、丈夫なワイヤーロープで岸に繋がれているので、両岸に縦方向に並び、流れの邪魔にはならない。

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水かさが減ったら地元の住民が板を元の位置に戻す。
橋と言えば、流されないような丈夫な構造が必要だと思うが、極楽橋は自然には逆らわず、流されることによって損傷を最小限に抑えている。

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星に願いをこめて 七夕祭り [行事・須崎市]

高知県須崎市多ノ郷宮ノ下(みやのしも)
行正部落と清枝(きえき)部落では昔からの七夕祭りを受け継いでいる。                                                         (クリックすると大きな画像が表示されます)

地元の方の話では、その昔、大感冒か疫病が流行したときに七夕様に願をかけたのが始まりらしい。 本来は旧暦の7月6日だが、アキ(水稲の収穫)と重なるので、新暦で行うようになった。

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当家(とうや)は6日の夕方から飾り付けを行う。 笹に短冊をつけ、笹と杭の間に縄を渡し、中央に提灯と田芋の葉に包んだ水を各一個、雌雄のわら馬と鞭、各一対の、くずの葉、せんだんの葉、茅、稲穂、なす、まくさ(和紙)に包んだ おふま(米)、ほおずき、を縄に吊るす。

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玄関横には 「棚」 をかまえ、中には一対のろうそくと小さな笹と短冊、菓子、果物、酒、ちらし寿司と、世帯数分の米子の重ね餅を供える。昔は各世帯から杯に一杯の米を集め、石臼で製粉していたが、近年は市販の米子で餅を作っている。

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6日の夜は、各戸から当夜の家に集まり 「お通夜」 といって雑談などをして過ごす。昔は翌朝日が昇るまで行っていたが、近年は日付が変れば 「お通夜」 は終わる。 「お通夜」 とは単に夜を通すことで 「葬」 の意味合いはない。

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7日の早朝には七夕飾りを近くの川へ 「あます」。川の両岸に縄を渡し笹を立てる。魔物が来るのを堰き止める意味があるそうだ。なお 「あます」 とは投棄ではなく神様に帰っていただくことらしい。

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伝承 七夕の わら馬 [資料・須崎市]

高知県内の一部には、古くから七夕飾りのひとつに、わら製の馬を用いる風習がある。
ここ須崎市の各地区の家々でも行われていたが、時代とともに行事は簡素化され 「わら馬」 の作り方も忘れ去られようとしている。         (クリックすると大きな画像が表示されます)

(1) 須崎市多ノ郷宮ノ下(みやのしも) 男性Oさんは子供の頃にわら馬作りを覚えた。今でも近所から依頼があれば快く引き受けて作っている。体が覚えているようだ。
雌雄があり胴体が太い。、耳と蹄(ひづめ)があって、たてがみは7本、胴体と足の接合にも独特の結び方があって全体がしっかりしている。右上の細い縄は鞭を表現したもの。
(個別の画像の背景は左右1m)

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(2) 須崎市多ノ郷地区婦人会が受け継いで、子供を対象に 「わら馬作り」 講習会を開いている。女性Mさんが見本に持参した物のレプリカ。
雌雄があり胴体は細い。雌雄とも頭髪?があるが、たてがみは雄のみに7本ある。胴体と足の接合は(1)とは明らかに違う。

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今年はほかに、浦ノ内地区と新荘地区の 「わら馬作り」 を見学したが、大きさはほぼ一緒だが細部は異なる。地区や家庭によって違っていたのかも知れない。

無病息災 賀茂神社の輪抜け [行事・須崎市]

高知県須崎市多ノ郷甲にある 賀茂神社で6月30日に 「輪抜け」 が行われた。
「輪抜け」 は正式には 大祓祭(おおはらいさい)。夏越(なごし)の祓いともいう。 元旦から半年間の罪穢れを祓い、あと半年を健やかに過ごせるように願って行われる。
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氏子の代表者数人が神社の山から孟宗竹を切り出し、青々とした茅(かや)を束ねて大きな輪を作り、三本縄をなう方法で作られた注連縄(しめなわ)が飾られている。

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賀茂神社の輪抜けは出店などもなく、静かで厳かな雰囲気が漂う。 雨の多い一日だったが、夜になっても須崎市内外から輪抜けの参拝者が訪れていた。

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短い鉄橋 防谷開きょ [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷為貞(ためさだ)地区の入口に 「防谷開きょ」 という短い鉄橋がある。
塗装シールには、「吾桑・多ノ郷間163K705M17 支間2M44」と書かれている。
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構造は分厚いH鋼を組み合わせ枕木が4本。片側に保線用の通路があり欄干(手すり?)が付いている。

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通路の幅は路面で160cm、中央レーチングの下は水路になっている。 軽自動車の最大幅は148cmなので計算上は通過できるが試す勇気がなかった。

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地元の方の話では、昔は自転車や荷車が行き来するだけで問題はなかったが、自動車の時代になり困りだして旧国鉄に何度か拡幅工事を願ったが受け入れられなかった。現在は自動車道の側道が出来たので不自由しなくなったそうだ。

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JR四国高知企画部を通じて高知保線区に伺ったところ、「鉄橋の長さは定義によって違ってくるが土佐山田には2m弱の鉄橋がある、防谷開きょは高知管内では短い方から5~6番以内に入るだろう」と、いう回答をいただいた。

金毘羅信仰 吾井郷の灯明台 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷(あいのごう)には3基の灯明台が残っている。
(ブログ記事「金毘羅(こんぴら)信仰灯明台」を参照)
                              (クリックすると大きな画像が表示されます)

(1)吾井郷岩永集会所にある灯明台
集会所の完成にともない現在の場所に移動したらしい。慶応元丑十月吉日 奉寄進 邑中 と刻まれている。(慶応元年=1865年)

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火袋の上部には金刀比羅宮を表す〇に金の印が見える。

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灯明台との関係はわからないが、そばに置かれた手水鉢には、明治丗四年九月 奉獻 西村達次 兼次 弥八 と刻まれている。(明治34年=1901年)

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(2)吾井郷尾殿 桜川河畔の灯明台
丈夫な石組みの上に建っている。 安政四年 奉寄進 丁巳三月吉日 氏子中 と刻まれている。(安政4年=1857年)

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ひび割れはあるが原形をとどめている修復前の火袋。明治十一年戌寅年八月十日 と刻まれ、灯明台よりも21年あとの日付になっている。(明治11年=1878年)

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修復された火袋も原型と同じく明治十一年戌寅年八月十日。

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(3)吾井郷国見 候申橋の下に建つ灯明台
安政五戌(午)?載八月 吉祥(男)? 獻燈 邦見三ヶ邑 と刻まれている。(安政5年=1858年) 国見を「邦見」と書いている。

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立派な灯明台だが火袋は木製。石の劣化も心配される。

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