古地図 明治39年の須崎 [資料・須崎市]
高知県(現)須崎市を中心とした古地図 (クリックすると大きな画像が表示されます)
この古地図は1/50000で、大日本帝国陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった、現在の国土地理院の前身 wikipediaから)によって明治39(1906)年に測量が行われ、明治43(1909)年に印刷されている。
北西は(現)佐川町尾川、北東は(現)高知市春野、南西は(現)中土佐町久礼あたりまでを囲む地図で、須崎市付近は当時の高岡郡須崎町、浦ノ内村、吾桑村、多ノ郷村の全域が入っているが、上分村、新荘村の東部が欠けているのが残念だ。
吾桑付近を拡大してみると、佐川町や土佐市へ向かう県道(現国道)は一応整備されているが、周辺の道路は一本の破線で表された小徑(小道)で、荷車も通行不能だったらしい。
須崎や多ノ郷付近も県道が整備されて、荷車の通行できる道も増えているが、少し山間に入るとたちまち小徑(小道)へと変わる。須崎港や池ノ内の池は、埋め立てや干拓前で現在よりずっと広く、桐間は海のままだ。
浦ノ内を見ると現在とルートは違うが、荷車の通行できる道が東へ伸びている。半島部では整備が遅れているが、当時から海上交通の方が盛だったことだろう。
この古地図は1/50000で、大日本帝国陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった、現在の国土地理院の前身 wikipediaから)によって明治39(1906)年に測量が行われ、明治43(1909)年に印刷されている。
北西は(現)佐川町尾川、北東は(現)高知市春野、南西は(現)中土佐町久礼あたりまでを囲む地図で、須崎市付近は当時の高岡郡須崎町、浦ノ内村、吾桑村、多ノ郷村の全域が入っているが、上分村、新荘村の東部が欠けているのが残念だ。
吾桑付近を拡大してみると、佐川町や土佐市へ向かう県道(現国道)は一応整備されているが、周辺の道路は一本の破線で表された小徑(小道)で、荷車も通行不能だったらしい。
須崎や多ノ郷付近も県道が整備されて、荷車の通行できる道も増えているが、少し山間に入るとたちまち小徑(小道)へと変わる。須崎港や池ノ内の池は、埋め立てや干拓前で現在よりずっと広く、桐間は海のままだ。
浦ノ内を見ると現在とルートは違うが、荷車の通行できる道が東へ伸びている。半島部では整備が遅れているが、当時から海上交通の方が盛だったことだろう。
2012-12-04 12:19
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コメント(2)
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初めまして、大変興味深く拝見させていただきました、ありがとうございます。
あまり誉められた事でもないですがこの地図に記載されている山道(昔の生活道?)をオフロードオートバイでトレッキングするのを趣味としております。山も荒れて道も崩れていますが山に入る度に、先代が道を造り畑を開墾したのを想像すると頭が下がります。
絵はがき画像で出てました久通の段々畑も素晴らしいのですが今は見るに忍びない状態となっております、これも貴重な資料をありがとうございます。
この地図の元データーや原本などはどこで保管されてるのですか?もし可能ならばコピー・保存出来れば幸いです。
sanmarino@mb.scatv.ne.jp
by はしだ (2015-09-02 12:40)
はしだ様
ご覧いただき有難うございます。先日も角谷安和間の旧国道を見てきましたが、県西部への大動脈だったとは想像も出来ません。道路も時代の状況にあわせて変化していくので面白いものです。
by とんび (2015-09-03 10:25)