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南海大震災記録写真帖  [資料・須崎市]

昭和21年12月21日 高知県須崎市などを巨大な地震と津波が襲ってきた。
<昭和22年6月 高知県須崎町(現 須崎市)の竹下増次郎氏が編集発行した写真帖>
ブログ掲載に関して平成24年2月29日 著者ご遺族 竹下忠君様にご承諾をいただきました。
(クリックすると大きな画像が表示されます)

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昔 デンプン 今 ミョウガ [資料・須崎市]

昭和29(1954)年9月に撮影された 高知県須崎市多ノ郷 付近
手前は土佐食糧株式会社のデンプン工場。画像中央の四角い槽で沈殿させたデンプンを、樹皮葺の長屋でモロブタに並べ乾燥させた。左側の白い部分はサツマイモの絞りかす置き場。
背景には水田が広がり左上に多ノ郷小学校が半分見えている。右上は多ノ郷駅付近の集落。
山腹にはサツマイモ畑と思われる段々畑が見える。
水田の中の一本道は国道56号線(現県道388号線) 国鉄(現JR)土讃線が弧を描いている。
写真提供=須崎市                   (クリックすると大きな画像が表示されます)

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平成24(2012)年4月 ほぼ同じ場所から撮影。
その後デンプン工場は、須崎市農協(現JA土佐くろしお)の野菜集出荷場となり、出荷量日本一を誇るミョウガをはじめキュウリなどが集出荷場されている。
60年弱のあいだに背景もすっかり変り、幹線道路やJR線は全く見えない。かつての水田には施設園芸のハウスが並び、また大間東町、緑町、西崎町、桐間などの商店や住宅地となった。山腹の段々畑は放置され雑木林に戻った。

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須崎駅 2番ホーム [資料・須崎市]

昭和39(1964)年1月 
高知県須崎市原町1丁目  国鉄須崎駅の2番ホームで入線して来る下り列車を待つ人々。
前年の昭和38(1963)年12月18日には、中村線の窪川駅と土佐佐賀駅の間が開業した。
地方でも蒸気機関車は徐々に姿を消し、気動車(ディーゼル)化されていった時代でもある。
背景の白い部分は須崎港、奥には桐間地区の海岸線や多ノ郷地区がぼんやりと見える。画像右には製材所があり板を井形に組んで自然乾燥させている。 写真提供=須崎市 
                               (クリックすると大きな画像が表示されます)

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平成22年(2012)年5月 
ほぼ同じ場所から撮影。 昭和62(1987)年4月1日に民営化されJR須崎駅となった。
2番ホームへ入線して来る特急「南風」。 線路やホームの位置は全く変っていない。ホームの屋根は葺きかえられているが支柱は同一のもの。ベンチや点字ブロックが設置されている。
海は一部が埋め立てられ木材工業団地の工場群となり、海や桐間地区は全く見えなくなった。背景中央の勝森(佐川町 標高544.8m) は石灰岩採掘のため稜線が変っている。

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伝承 七夕の わら馬 [資料・須崎市]

高知県内の一部には、古くから七夕飾りのひとつに、わら製の馬を用いる風習がある。
ここ須崎市の各地区の家々でも行われていたが、時代とともに行事は簡素化され 「わら馬」 の作り方も忘れ去られようとしている。         (クリックすると大きな画像が表示されます)

(1) 須崎市多ノ郷宮ノ下(みやのしも) 男性Oさんは子供の頃にわら馬作りを覚えた。今でも近所から依頼があれば快く引き受けて作っている。体が覚えているようだ。
雌雄があり胴体が太い。、耳と蹄(ひづめ)があって、たてがみは7本、胴体と足の接合にも独特の結び方があって全体がしっかりしている。右上の細い縄は鞭を表現したもの。
(個別の画像の背景は左右1m)

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(2) 須崎市多ノ郷地区婦人会が受け継いで、子供を対象に 「わら馬作り」 講習会を開いている。女性Mさんが見本に持参した物のレプリカ。
雌雄があり胴体は細い。雌雄とも頭髪?があるが、たてがみは雄のみに7本ある。胴体と足の接合は(1)とは明らかに違う。

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今年はほかに、浦ノ内地区と新荘地区の 「わら馬作り」 を見学したが、大きさはほぼ一緒だが細部は異なる。地区や家庭によって違っていたのかも知れない。

須崎市 観光絵葉書 [資料・須崎市]

高知県須崎市
昭和29年10月1日、須崎町、多ノ郷村、浦ノ内村、吾桑村、上分村の5か町村が合併して市制を施行した。この絵葉書は市政発足後、間もないころに発行されたものらしい。
                               (クリックすると大きな画像が表示されます)

タトウは、箕越の鉱石タンクや真珠養殖と思われるイケス。なぜか「SUZAKI」と濁っている。
以下いずれの絵葉書も白黒コロタイプ印刷に手彩色を施したもの。

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現在の須崎音頭は昭和44(1969)年に作られたが、それ以前から歌詞の違う須崎音頭があったようだ。
(絵葉書の表には一枚ごとに説明が書かれている。以下、文章、漢字とも原文のとおり)
錦浦湾
須崎港の東部に連る内海で戸島、神島、中ノ島を始め数多の小島岩礁が各所に点在し背面には遺跡と伝説に富んだ古墳、名刹など多く四季を通じ絶好の行楽地である。

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須崎港
外港100万坪、内港70万坪、水深40尺、1万屯級の巨船が自由に出入淀泊できる天然の良好で向山、鎮海、城山の三公園が囲んでいる。

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墫の滝
須崎駅西方十一粁にある墫の滝は奇厳絶壁に懸り直下百五尺を覆って日光淡く照らす夏季四囲は猛暑と雖も冷気身に迫って大町桂月の碑あり「大空に滝を仰ぎて昼寝かな」

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横波三里
山一つ距てた向い側は太平洋の怒濤が天に吼えているが、こゝは入江三里鏡のような静かな海である絵のような美しい風光のなかに史跡も多く鰹と真珠は日本的に有名である。

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鳴無神社
(重要文化財)千参百年前の創造で一言主大神を祀る。その建築は人工の限りを尽し樫彩色の社殿が横波三里の海に映る風情はまた格別である。

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砲台跡
文久三年異国の来襲に備えた砲台の元形をとゞめ県下唯一のものと指定されている。

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大谷の樟
(天然記念物)県立公園須崎湾沿岸の須賀神社境内にあり樹令千三百年見るからにものすごい巨木である。

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角谷の展望台
県立公園、須崎湾内絶好の展望所で雄大な海洋公園をほしいまゝに眺望できる。

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続・須崎市 観光絵葉書 [資料・須崎市]

高知県須崎市
昭和29(1954)年に市制発足後、経済成長期の波に乗りあらゆる分野で発展していった。
この絵葉書の詳細は不明だが、ブログ記事「須崎市観光絵葉書」の絵葉書よりも後の、昭和43(1968)年以降に発売されている。印刷もオフセットに変わり幾分きれいになった。また何回か改訂版が発売されたらしい。             (クリックすると大きな画像が表示されます)

錦浦湾の夜明  (以下、絵葉書の説明文のとおり)

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(荘厳)墫の滝

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大阪セメント高知工場

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須崎港1万瓲岸壁

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国道56号線 安和 (2枚とも)

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安和海岸 

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須の浦海岸

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県立自然公園横波三里

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久通より龍崎を望む(宇佐)

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久通峠より戸島・神島展望

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ハマチ養殖で名高い野見湾

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テレビ塔より須崎市を望む

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古地図 明治39年の須崎 [資料・須崎市]

高知県(現)須崎市を中心とした古地図      (クリックすると大きな画像が表示されます)

この古地図は1/50000で、大日本帝国陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった、現在の国土地理院の前身 wikipediaから)によって明治39(1906)年に測量が行われ、明治43(1909)年に印刷されている。
北西は(現)佐川町尾川、北東は(現)高知市春野、南西は(現)中土佐町久礼あたりまでを囲む地図で、須崎市付近は当時の高岡郡須崎町、浦ノ内村、吾桑村、多ノ郷村の全域が入っているが、上分村、新荘村の東部が欠けているのが残念だ。

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吾桑付近を拡大してみると、佐川町や土佐市へ向かう県道(現国道)は一応整備されているが、周辺の道路は一本の破線で表された小徑(小道)で、荷車も通行不能だったらしい。

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須崎や多ノ郷付近も県道が整備されて、荷車の通行できる道も増えているが、少し山間に入るとたちまち小徑(小道)へと変わる。須崎港や池ノ内の池は、埋め立てや干拓前で現在よりずっと広く、桐間は海のままだ。

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浦ノ内を見ると現在とルートは違うが、荷車の通行できる道が東へ伸びている。半島部では整備が遅れているが、当時から海上交通の方が盛だったことだろう。

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戦闘機 愛国 三五一二(土佐須崎)号 [資料・須崎市]

今回、高知県須崎市に在住の方から、戦闘機 愛国 (土佐須崎)号 の写真をお借りすることができた。                        (クリックすると大きな画像が表示されます)

「愛国号」 とは、企業や一般人が集めた国防献金などで陸軍に軍用機を献納したもので、昭和7年の陸軍 「あいこく1号」 から始まり、瞬く間に全国的レベルに広がった。同様に海軍に献納したものは 「報国号」 と呼ばれた。陸海両軍で番号どおりであれば7000機を超えるであろう献納機だが、全貌は明らかになっていない。

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愛国(土佐須崎)号の機種は、二式単座戦闘機で鍾馗(しょうき)の愛称で呼ばれ、最大速度600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600kmを誇った機体は、中島飛行機で1227機が製造された。

写真の下には、戦闘機 愛国 第三五一二(土佐須崎)陸軍省 と書かれている。詳細はわからないが、旧高岡郡須崎町(現 高知県須崎市)から献納された機体だろう。また献納時期は番号から判断して昭和19年だと思われる。これと同一の写真が数多く存在するので、機体後部の(土佐須崎)の文字は写真加工されたものだろう。

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出典 「航空史の片隅」 http://www1.hinocatv.ne.jp/mizuki-y/AvnHistory/CornerOfAviationHistory.html 
(管理人様から研究資料の引用についてご快諾を頂きました)

須崎消防組 組旗 [資料・須崎市]

高知県須崎市山手町 須崎消防団本部の一室に須崎消防組の組旗が保管されている。
〇本ブログ「火の用心 夜警用照明具(提燈)」も参照してください。
                             (クリックすると大きな画像が表示されます)

ガラス張りの額の大きさは 幅106cm 高さ79cm。一見したら何の布だろうと思うほど変色し、破れると言うよりも溶けかけている状態の組旗。かろうじて右側上下に房が残り旗だとわかる。
デザインはシンプルで現在の警察のシンボルマークの中央に須崎の「す」が描かれ、下には右書きで須﨑消防組と黒字で書かれている。額に添付された説明によると大正末期から昭和初期の間に製作されたとのこと。

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政府は明治27(1894)年に「消防組規則」を制定し、まちまちだった消防組織を「消防組」として、警察の指揮下において全国統一を図ることになった。この「消防組」制度は昭和14(1939)年3月31日に、空襲から身を守る防空業務を担っていた防護団を吸収し警防団に改編されるまで続いた。

大正14(1925)年の高知県統計書によれば、須崎警察署管内には須崎町、久礼町、上ノ加江町の3つの消防組があった。
須崎町消防組は、組頭、小頭を含め総勢69名の組員で結成され、装備はガソリンポンプが1、腕甲喞筒(わんこうそくとう)=手動ポンプ2、提灯2、ハシゴ1、鳶口10、引倒網1、運水具15などがあり、同年4月1日現在の消防予算経費は104万円だった。

火の用心 夜警用照明具(提燈) [資料・須崎市]

 高知県須崎市山手町 須崎消防団本部の一室に須崎消防組の組旗(本ブログ 須崎消防組 組旗 参照) とともに夜警用の照明具が保管されている。
                             (クリックすると大きな画像が表示されます)

 この照明具は昭和10年頃に消防の夜警用に使用されていたようで、須崎市内の某氏が消防資料として須崎市消防団へ寄贈されたもの。高さは取っ手を含めて約34cm 直径は約12cm。取っ手、笠、底、裏蓋はブリキ製で、照明部分は麻のような生地にニカワ状の樹脂を塗っているように見える。

 正面には朱枠で囲まれた須崎消防後援會の文字が書かれ、裏面は扉が取り付けられている。扉には取っ手とは別に自転車に取り付けられるようにフックがある。

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 正面に向かって左側には火の用心。同じく右側には第三十一號と朱書きされている。1からの番号とすれば少なくとも31個存在したことになるが、他に実在するものが無いので個数は定かではない。

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 裏蓋をゆっくり開けると、底の中心にはロウソク立てがあり、周囲には溶けたロウソクやマッチの軸が落ちていて往時をしのばせる。また底が直接床に接しないように三つ足が付けられ、細部まで心配りがなされている。

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