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失われていく貴重な資料

 高知県須崎市 弧を描く高知県のほぼ中央に位置し、太平洋を望み、四国山地を背にして、比較的温暖な気候に恵まれている。また高速道路も整備され県都高知市から車や特急列車で30分前後で到着する。しかしながら人口は他の地方都市同様に減り続け、人口減少を抑えるため行政のみならず団体を組織し積極的に活動しているが平成25年8月末現在23,790人となった。

 昔から地域で語り継がれてきた行事や芸能は、後継者不在から年を追うごとに一つまた一つと消えていく。古い建造物にしても、行政が文化財などに指定したもの以外は知らぬまに姿を消していった。

 家庭においても3世代4世代同居が当たり前だった時代は、家宝でなくても貴重なものは代々受け継がれてきた。若者は仕事も求め都会で暮らす現代は親の死に目にも会えない時代、葬儀が済めば価値の無い古いものは容赦なく処分され、住処さえも姿を消してしまうこともあるだろう。そうしたなか貴重な郷土資料も失われつつあるのも認めたくない事実だ。
 
 下の写真は、持ち主がいなくなり処分される寸前に興味のある人が通りかかり譲っていただいたもの。また古い新聞紙は何かの包装に使われ焼却前に拾われたもの。両者とも「きっかけ」が無ければこの日時には存在していなかった。これらの資料は精査すれば当時の世相や生活などが見えてくるだろう。(クリックすると大きな画像が表示されます)

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 個人が所有している資料の処分に関して第三者が口を挟むことではないが、私からすれば貴重な資料が消えていくことは、地域の生き証人がいなくなるような寂しさともったいなさが残る。出来ることなら何とか実物でなくともコピーやレプリカでも、きちんとした所で後世に残していければと考えている。

 皆様のなかで、下記の地域に関する写真、絵はがきなどの画像や冊子などの資料、戦前の新聞やチラシ広告などお持ちの方で、拝見させていただける方、処分される方、またそういう別の方をご存知の方などおいでましたら、どんな小さなことでも結構ですのでご連絡ください。プライバシーや版権などについては慎重を期しますので宜しくお願いします。

対象地域 高知県須崎市 (旧高岡郡 須崎町 多ノ郷村 吾桑村 新荘村 上分村 浦ノ内村) 高知県高岡郡津野町の(旧葉山村東部 旧下半山村) ほか須崎市関連の資料

連絡先 とんび (本名などにつきましては返信で連絡申し上げます)
mikan336@hyper.ocn.ne.jp

読経とともに 旧暦の七夕 [行事・須崎市]

高知県須崎市大間西町 須崎市内の多くの地区では七夕は新暦で行われているが、ここでは現在も旧暦で行われている。            (クリックすると大きな画像が表示されます)

旧暦7月6日(平成25年新暦=8月13日) 場所は町内の薬師堂。七夕の飾りや供物の準備ができたころ、僧侶が来て薬師堂の前で読経をあげ、代表者などが順番に線香を手向け手を合わす。なお、確認している限りでは僧侶が読経をあげるのはこの地区だけである。

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戦前は各戸で七夕行事を行っていたが、戦後になり薬師堂の境内を借りて合同で行われだしたそうだ。 また、多くの地区では水稲の収穫時期と重なることから新暦に変更されたが、この地区は商店などが比較的多いため、旧暦のまま引き継がれてきたとも推測できる。

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七夕飾りは短冊をつけた笹を2本立て、縄を渡して供え物をぶら下げる。 飾り物は雌雄のわら馬、ふろう(三尺ささげ)、ほうづき、芋のつる、なす、きゅうり、田芋の葉に包んだ水、おふま(米)、短冊などで、数や順番の取り決めはない。

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この地区の特徴としては飾り物に「麻糸」を加える。麻糸は織姫様が機(はた)を織る材料だったことに由来するらしい。

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参照 本ブログ「星に願いをこめて 七夕祭り」

改良は続く 県道久礼須崎線 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市と中土佐町を結ぶ県道320号線。 険しい山腹を蛇行する往還筋に代わり、大正13年4月に海岸回りの道路を着工、昭和5年10月に府県道高知中村線の一部として高岡郡久禮町久禮(現中土佐町久礼)と同郡新荘村安和(現須崎市安和)間が完成した。 
完成時の資料によると、延長2里3町31間(8.238km) 幅員3間(5.45m) 工費32万円 となっている。                     (クリックすると大きな画像が表示されます)

高岡郡新荘村安和(現須崎市安和) 斜面は約70度の急角度で削られ、海岸沿いに残土を落とし工事用と思われる小道も見られる。岩山やはえ(岩礁)の松が情緒をかもし出している。

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残土は波に洗われ間もなく無くなったであろう、海岸は石垣で固められ改良の後が見える。急角度の斜面は樹木で覆い隠されて見えない、はえの松も無くなった。

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青木崎から長迫隧道を見る。 山肌は80度の急角度に切り取られ、断崖の一部はコンクリートで固められているが、未舗装でガードレール様のものはない。
(本ブログ 断崖絶壁 長佐古隧道 を参照)

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わずかに拡幅された道路には、ガードレールも設置されて洞門(ロックシェード)や落石防護ネットが張られているが、落石や斜面の崩壊は後を絶たない。

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高岡郡久禮町久禮(現中土佐町久礼)鎌田付近。 山側はほぼ垂直に切り立ち岩肌が剥き出しになって、道路には残土が置かれている。画像右上の双名島付近には伝馬船のほか四角い帆をあげた小船も見える。

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道路は山肌を掘削して拡幅されて、ガードレールやカーブミラーが設置され生活道となっている。双名島は堤防で陸続きになり灯台へ送電用の電柱も見える。

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昭和38(1963)年には一級国道56号線に昇格したが、同年には落石死亡事故が発生するなど依然として危険な状態が続いた。国は昭和42(1967)年に須崎市安和と久礼地区を結ぶ新道(延長6.3km)に着手。昭和45(1970)年に供用開始。これに伴い海岸部分は再び現在の県道320号線となった。

涼を求めて 樽の滝 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市上分甲 国道197号線から県道317号線に入り、案内板のとおり樽集落を進むと樽の滝に到着する。                 (クリックすると大きな画像が表示されます)

集会所に車を停め、板橋の方に向かうと奥に高さ約37m幅約6mの大きな滝が見える。板橋を渡り住吉神社の鳥居をくぐりぬけて滝に近寄ると、霧状の水滴が飛んであたり一帯が冷気に包まれていた。ちょうど空梅雨で滝本来の壮大な姿が見られなかったのが残念だ。

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現在も県立自然公園に指定されているが、昔から名所だったらしく観光絵はがきなども存在する。滝の裏側から眺めることのできる「裏見の滝」としても有名。 またシシラン科のタキミシダは、牧野富太郎が明治19=1886年春にこの滝を訪れたときに見つけたことに由来する。

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公園内にある大きな句碑には高知県出身の歌人 大町桂月(明治2=1869年~大正14=1925年)が大正9=1920年に来遊したときに詠んだ「大空に瀧を仰ぎて晝寝哉(ひるねかな)」の句が刻まれている。一説には須崎市の西内誠喜氏が大町氏を高岡郡越知町の「大樽の滝」へ案内した際にこの句を残したとも言われている。

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板橋から奥を眺めると、左側に樽の滝、中央に住吉神社の社と鳥居、右に大町桂月の句碑が見える。この日は誰にも出会わなかったが、夏にかけて市内外から涼を求めてたくさんの人達が訪れることだろう。

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賀茂神社 蛍神事 [行事・須崎市]

高知県須崎市多ノ郷甲 賀茂神社の春祭り(別名 蛍神事=ほたるじんじ)は毎年5月の第二の酉の日に執り行われる。それに先立ち5月5日に奉堂(ほうとう)建ての神事が執り行われた。宮司は神に息が掛からないように紙製のマスクを着用して、降神の儀、昇神の儀を行い神を送迎した。
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奉堂の中心の樫木の杭には高さ10m超の淡竹(はちく)を建て、最上部には藁すぼ(わらの束)に3本の御幣を飾る。左右各5本の杭には榊に御幣をつけ竹を挿し、三つ編みにした注連縄(しめなわ)には3本の藁房と4枚の御幣が飾られる。

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1軒の本当屋と3軒の脇当屋の玄関にも、奉堂と同じように注連縄と榊、竹が飾られる。 4軒の当屋は、大峰橋下で清めの「塩ごりとり」を行い、5月5日の「奉堂建て」、5月18日の「宵祭り」、5月19日の「本祭」、5月20日の「奉堂鎮め」の神事に正装で参列する。

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本祭の古式の直会(なおらい)では、各自が平瓦(かわらけ)=白い小皿を持参し、御神酒を3回に別けていただき同じ皿で御煮しめをいただく。最後に草履(ぞうり)形と円形の餅が渡される。

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カーブに沿った家 森岡家住宅 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市中町1丁目 T字交差点のカーブに沿って南東角を丸くした家がある。
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現在は空家となり詳細を知るすべも無いが、一説によれば平屋部分は明治時代初期に流行した商店の造りで、築後約100年を経過しているとも言われている。二階部分は後年増築されたそうで、確かに二階部分と平屋部分とでは瓦が異なる。

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側溝、壁、窓、軒、瓦まで、全てが綺麗な弧をなしている。そればかりか注意してみると、窓部分の敷居や鴨居、ガラス戸や雨戸までもが同じく緩やかに曲がっている。
海岸沿いの須崎には昔から木造船を作る船大工がいて、こうした曲線を出す技術も船大工由来のものかも知れない。

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撮影中も車が引っ切り無しにカーブをスムーズに曲がって走って行く。道路にあわせて家を建てたのか、家にあわせて道路が出来たのか分からないが、将来の車社会を見越していたとしか思えない。

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西側から見ると、二階部分の豪華な瓦屋根が光っていた。屋根の重量に耐えるためなのか二階は南側だけにしか窓がない。また平屋部分は一部が大きく陥没して傷みも相当激しいようだ。

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須崎消防組 組旗 [資料・須崎市]

高知県須崎市山手町 須崎消防団本部の一室に須崎消防組の組旗が保管されている。
〇本ブログ「火の用心 夜警用照明具(提燈)」も参照してください。
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ガラス張りの額の大きさは 幅106cm 高さ79cm。一見したら何の布だろうと思うほど変色し、破れると言うよりも溶けかけている状態の組旗。かろうじて右側上下に房が残り旗だとわかる。
デザインはシンプルで現在の警察のシンボルマークの中央に須崎の「す」が描かれ、下には右書きで須﨑消防組と黒字で書かれている。額に添付された説明によると大正末期から昭和初期の間に製作されたとのこと。

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政府は明治27(1894)年に「消防組規則」を制定し、まちまちだった消防組織を「消防組」として、警察の指揮下において全国統一を図ることになった。この「消防組」制度は昭和14(1939)年3月31日に、空襲から身を守る防空業務を担っていた防護団を吸収し警防団に改編されるまで続いた。

大正14(1925)年の高知県統計書によれば、須崎警察署管内には須崎町、久礼町、上ノ加江町の3つの消防組があった。
須崎町消防組は、組頭、小頭を含め総勢69名の組員で結成され、装備はガソリンポンプが1、腕甲喞筒(わんこうそくとう)=手動ポンプ2、提灯2、ハシゴ1、鳶口10、引倒網1、運水具15などがあり、同年4月1日現在の消防予算経費は104万円だった。

戦闘機 愛国 三五一二(土佐須崎)号 [資料・須崎市]

今回、高知県須崎市に在住の方から、戦闘機 愛国 (土佐須崎)号 の写真をお借りすることができた。                        (クリックすると大きな画像が表示されます)

「愛国号」 とは、企業や一般人が集めた国防献金などで陸軍に軍用機を献納したもので、昭和7年の陸軍 「あいこく1号」 から始まり、瞬く間に全国的レベルに広がった。同様に海軍に献納したものは 「報国号」 と呼ばれた。陸海両軍で番号どおりであれば7000機を超えるであろう献納機だが、全貌は明らかになっていない。

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愛国(土佐須崎)号の機種は、二式単座戦闘機で鍾馗(しょうき)の愛称で呼ばれ、最大速度600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600kmを誇った機体は、中島飛行機で1227機が製造された。

写真の下には、戦闘機 愛国 第三五一二(土佐須崎)陸軍省 と書かれている。詳細はわからないが、旧高岡郡須崎町(現 高知県須崎市)から献納された機体だろう。また献納時期は番号から判断して昭和19年だと思われる。これと同一の写真が数多く存在するので、機体後部の(土佐須崎)の文字は写真加工されたものだろう。

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出典 「航空史の片隅」 http://www1.hinocatv.ne.jp/mizuki-y/AvnHistory/CornerOfAviationHistory.html 
(管理人様から研究資料の引用についてご快諾を頂きました)

吾井郷天満宮 古屋竹原の絵馬 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷甲 吾井郷天満宮に古くから伝わる 古屋竹原の絵馬  (須崎市教育委員会保管)                      クリックすると大きな画像が表示されます。

絵馬の題名は 「酒呑童子」 (しゅてんどうじ)。木の種類はわからないが一枚板に描かれている。絵馬全体の大きさは幅約125cm、高さ約77cm。
右上に杯を持って下界を見下ろす酒呑童子、左には行者のような5人の人物、中央下には行者に気づいた洗濯をしている女性が描かれている。梅花を得意としていた古屋竹原の作品の中では希少な存在とされている。 

作者 古屋竹原=ちくげん(実名 良材=よしき)は、天明8(1788)年に大野見郷竹原(現 中土佐町)に生まれ、14歳のときに江戸に出て絵を学び、大坂(大阪)で医術を学び帰郷後、廿代町(現 高知市)で漢学塾を開いた。
35歳のときから須崎古市町(現 須崎市)に居住し文化人の中心的人物となった。「竹原の梅」 と言われるほど梅花の絵を得意とし、また幕末の志士 間崎滄浪とも親交があったが、文久元(1861)年に没す。

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裏面には、「天保九年戊戌九月八日 御上使御通行ニ付 郷中立願成就 五月廿八日御通行」 と書かれ、下には山崎八右衛門、喜蔵、喜傳次、新右衛門ら計39名の名前が書かれている。
御上使とは上意伝達のために派遣された使者のことで、使者が地元を無事通過したことを祝い、山崎八右衛門らが吾桑天満宮に奉納したとされている。

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なお、表面右には 「天保戊戌秋日 古屋梁」 と記されている。古屋竹原は梁を含め数種類の雅号を持っていたためで、厳密には 「古屋梁の絵馬」 とするのが正しいのかも知れない。

青年団と一枚の油絵 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷乙 須崎市立吾桑公民館の一室に、メロンなど果物を描いた一枚の油絵が掛けられている。                  (クリックすると大きな画像が表示されます)

作者は洋画家の高橋虎之助 明治23(1890)年に現在の高知県高岡郡日高村に生まれ、高知県立農林学校(現 高知農業高校)を卒業後上京、太平洋画会研究所に入門し1923年から2年間ヨーロッパへ留学。戦後は太平洋美術会の会長として、90歳を過ぎても作品の制作に取り組んでいたが、昭和59(1984)年に93歳で亡くなった。

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裏には、「果物 高橋虎之助 筆 中平兵庫助元忠の墓に 寄せらるゝご厚意を子孫として感謝しこゝに父 高橋虎之助の筆になる画を(呈?)します 昭和丗二年五月 中平康 吾桑青年團 御中」と、書かれている。

贈り主の中平康(なかひらこう)は、高橋虎之助の子として大正15(1926)年に旧東京市滝野川区に生まれ、母方の中平姓を継いだ。中学校時代から映画に熱中し、映画界ではモダン派と呼ばれる映画監督になった。「狂った果実」など多くの代表作を残し、土佐の絵師金蔵(絵金)を描いた「闇の中の魑魅魍魎」も完成させたが、昭和53(1978)年52歳の若さで亡くなった。

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須崎市吾井郷乙尾殿 県道388号線(旧国道56号線)沿いに、中平兵庫助元忠の墓がある。
中平兵庫助元忠は、津野家11代 之高(ゆきたか)の長男 常定から始まる分家の三代目で、津野家一の戦闘軍団を持ち、尾殿畴田(うねた)城を戦時の城としていた戦国武将だった。元亀3(1572)年78歳で死去した。墓は100年以上後に曾孫の道晃比丘が延宝7(1679)年に建立した。 中平家は須崎地域で最古の1000年を越える名門として知られている。

墓の斜め後にはもう1基の石柱があり、左側面に「昭和五年十月之ニ建」、裏面に「中平兵庫助元忠之墓標 是ヨリ下四米」、右側面に「吾桑村青年團」と刻まれている。

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要約すれば、祖先の墓を守ってくれている青年団に感謝し贈り物をした美談である。

青年団のルーツは室町時代には存在し、江戸時代には村の生活組織と密着した自然発生的な集団であった。明治初期には自由民権運動の影響もあり、全国へ青年組織の結成が広まっていったが、明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として各種国家事業にも動員された。大正時代には青年団および処女会(女子青年団)となるが、昭和に入り青年団も国策への協力を余儀なくされ、戦局の悪化に伴い学徒隊に編入された。戦後は青年団を社会教育関連団体として位置づけ、活動も社会教育的な面が大きくなったが団員数は減少し続け、社会における青年団のウエイトも低下していった。

須崎市にも各地区に青年団があった。市制施行後は各団が集まり、須崎市連合青年団(後の須崎市青年団体連絡協議会)を組織化し、地元の行事や奉仕活動などに盛に取り組んだが、昭和時代の終わりとともに消滅していった。

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