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青年団と一枚の油絵 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷乙 須崎市立吾桑公民館の一室に、メロンなど果物を描いた一枚の油絵が掛けられている。                  (クリックすると大きな画像が表示されます)

作者は洋画家の高橋虎之助 明治23(1890)年に現在の高知県高岡郡日高村に生まれ、高知県立農林学校(現 高知農業高校)を卒業後上京、太平洋画会研究所に入門し1923年から2年間ヨーロッパへ留学。戦後は太平洋美術会の会長として、90歳を過ぎても作品の制作に取り組んでいたが、昭和59(1984)年に93歳で亡くなった。

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裏には、「果物 高橋虎之助 筆 中平兵庫助元忠の墓に 寄せらるゝご厚意を子孫として感謝しこゝに父 高橋虎之助の筆になる画を(呈?)します 昭和丗二年五月 中平康 吾桑青年團 御中」と、書かれている。

贈り主の中平康(なかひらこう)は、高橋虎之助の子として大正15(1926)年に旧東京市滝野川区に生まれ、母方の中平姓を継いだ。中学校時代から映画に熱中し、映画界ではモダン派と呼ばれる映画監督になった。「狂った果実」など多くの代表作を残し、土佐の絵師金蔵(絵金)を描いた「闇の中の魑魅魍魎」も完成させたが、昭和53(1978)年52歳の若さで亡くなった。

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須崎市吾井郷乙尾殿 県道388号線(旧国道56号線)沿いに、中平兵庫助元忠の墓がある。
中平兵庫助元忠は、津野家11代 之高(ゆきたか)の長男 常定から始まる分家の三代目で、津野家一の戦闘軍団を持ち、尾殿畴田(うねた)城を戦時の城としていた戦国武将だった。元亀3(1572)年78歳で死去した。墓は100年以上後に曾孫の道晃比丘が延宝7(1679)年に建立した。 中平家は須崎地域で最古の1000年を越える名門として知られている。

墓の斜め後にはもう1基の石柱があり、左側面に「昭和五年十月之ニ建」、裏面に「中平兵庫助元忠之墓標 是ヨリ下四米」、右側面に「吾桑村青年團」と刻まれている。

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要約すれば、祖先の墓を守ってくれている青年団に感謝し贈り物をした美談である。

青年団のルーツは室町時代には存在し、江戸時代には村の生活組織と密着した自然発生的な集団であった。明治初期には自由民権運動の影響もあり、全国へ青年組織の結成が広まっていったが、明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として各種国家事業にも動員された。大正時代には青年団および処女会(女子青年団)となるが、昭和に入り青年団も国策への協力を余儀なくされ、戦局の悪化に伴い学徒隊に編入された。戦後は青年団を社会教育関連団体として位置づけ、活動も社会教育的な面が大きくなったが団員数は減少し続け、社会における青年団のウエイトも低下していった。

須崎市にも各地区に青年団があった。市制施行後は各団が集まり、須崎市連合青年団(後の須崎市青年団体連絡協議会)を組織化し、地元の行事や奉仕活動などに盛に取り組んだが、昭和時代の終わりとともに消滅していった。
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