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流されるがままに 極楽橋 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷 
極楽橋は弘岡と小浜の間を流れる桜川に架かっている。
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橋がいつから存在するのかは分からないが、徒歩で往来していた時代ここは 「極楽の渡り」 と呼ばれ、須崎と佐川を結ぶ幹線だった。現在も近道として重宝されている。

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橋は4本の一枚板からなり、幅44cm 厚さ11.5cm 長さは、岸に近い2枚は約6.3m 中央の2枚は約5.45m 全長は約23.5mになる。あとは3個のコンクリート製の簡単な橋げたがあるだけだ。

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雨が降り水かさが増すと板は流されるが、丈夫なワイヤーロープで岸に繋がれているので、両岸に縦方向に並び、流れの邪魔にはならない。

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水かさが減ったら地元の住民が板を元の位置に戻す。
橋と言えば、流されないような丈夫な構造が必要だと思うが、極楽橋は自然には逆らわず、流されることによって損傷を最小限に抑えている。

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続・金毘羅信仰 桑田山の灯明台 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市桑田山(そうだやま)にも3基の灯明台が残っている。
前回の吾井郷は平野部だが桑田山は山間部。 また3基とも年月日などの文字が刻まれていないのも特徴だ。
(参照 本ブログ 「金毘羅(こんぴら)信仰灯明台」 「金毘羅信仰 吾井郷の灯明台」)
                              (クリックすると大きな画像が表示されます)

(1)桑田山甲 東山にある灯明台
近所の方に教えて頂き歩いたが、何も無いので引き返すべく振り向いたら、木立に隠れるように灯明台があった。

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火袋はコンクリートで再現されているが、足元に古い石製の火袋の一部が置かれていた。

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(2)桑田山甲 堀越にある灯明台
国道56号線 新名古屋トンネル入口の手前から狭い市道をほぼ登りつめると、石積みの上に建つ灯明台が見えてくる。

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つたに覆われているが石製の火袋もきれいな形で残っている。

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(3)桑田山甲 千々川にある灯明台
国道56号線 千々川から谷へ下ると、橋のたもとの丸い岩の上に灯明台がある。

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火袋は木製で風情はあるが、老朽化が気になるところ。

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土用の丑の日 八千代 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市新町1丁目
八千代の店舗は、新町商店街の中でもひときわ軒高の低い木造二階建。
最初は大正5(1916)年に同市中町で開業して、現在の店舗に移転したのは昭和7(1932)年前後の頃らしい。

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店舗はそれ以前からあって、戦災をやり過ごし地震津波や風水害にも耐えてきた。おそらく100年前後の歴史がある建物のようだ。
営業中は 「御食事 八千代」 の看板が掛けられる。

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八千代の代名詞とも言える 「うなぎ」 は、いたってシンプル。 うなぎの価格が高騰した今年も、例年のように国産うなぎにこだわる。
他にもだしの効いた 「厚焼き卵」 など、昔から変らない味がある。

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開業当時から何も変らない竈(かまど)のある厨房。 うなぎや玉子焼きは炭火で焼かれる。
明り取りの天窓から、コンクリートの土間や、漆黒の梁や柱に光が射していた。

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名門 久松家の墓所 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市多ノ郷甲 和佐田 の山中に 久松家 の墓所がある。
その昔、多ノ郷に栄えた名門で、津野氏分限帖にある中老26人の一人、久松三郎兵衛一族の墓所。                           (クリックすると大きな画像が表示されます)

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上の画像では左端に位置する石碑
古い資料では倒れた状態だったが建て直されている。「川越貞宗之後胤久松徳右衛門英侶之嫡子 法名五徹浄音居士 久松九郎兵衛侶直墓 行年四十五歳而明歴三丁酉七月十七日卒 次男陽庵侶重立之」 (明歴3年=1657年)

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一番上の画像で左から3番目は、 久松九郎兵衛侶直の妻の墓 「久松九郎兵衛侶直之妻 見室妙性大姉 行年五十二而?文五?正月廿七」 

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一番上の画像で左から2番目は、久松九郎兵衛侶直の嫡子の墓 「久松九郎兵衛嫡子 法名法了?信士 久松左五兵衛侶清墓 行年七十四歳而正徳三?年十二月十七日」 (正徳3年=1713年)

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ほかに、一番上の画像で右端は関係は分からないが、「雷山祐光信士」。 墓所には、これら4基の石碑のほかに石畝(いしぐろ)が4基ある。
また資料によれば久松の姓を名乗った墓所は多ノ郷地区に合計3ヶ所あるそうだ。

JR須崎駅 地蔵菩薩 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市原町1丁目 
JR四国 須崎駅構内の一角にトタン葺きのお堂があり、一体の地蔵菩薩が安置されている。
詳しくは分からないが、舟形光背の左肩に天保十亥年(1839年)と刻まれている。
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大正13(1924)年 須崎駅は土讃線の前身である高知線の起点駅として開業に備え、地蔵菩薩を埋め込んだところ付近に事故や病人が相次いだ。このため当時の機関区長が現在の場所に安置し、毎年例祭と奉納相撲を行っていた。

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ところが第二次大戦後の混乱期に、例祭などが一時中断されたところ死亡や重症事故が続き、昭和27(1952)年5月23日にこれらの行事を復活した。現在は相撲奉納は姿を消しているが、平成24(2012)年は9月9日にJR関係者や地元有志が参列し例祭が行われた。

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糺鴨神社の御神刀 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市東糺町 糺鴨(ただすかも)神社に一振の日本刀が御神刀として祀られている。
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刀身80.3cm 刀銘は 文久三年八月吉日 土佐國住 源恒吉 作之 (文久3年=1863年)
源恒吉 高岡郡佐川町出身 京都で活躍した南海太郎朝尊の甥にあたる。

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鞘(さや)には、明治十年吉月良日 古屋造作 杉本培 古屋正新 拝 と記されている。 (明治10年=1877年)
古屋造作 雅号=紫竹(しちく) 天保3(1832)年 高岡郡須崎村古市町(現須崎市)に生まれ、父古屋竹原(ちくげん)から画を学び、明治17(1884)年8月には第2回内国絵画共進会へ出品する。弟の杉本培と古屋正新も画家だった。

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鍔(つば)には、左右にトンボが描かれている。

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懐メロが聴こえてきそう 岩井レコード店 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市新町1丁目 ひときわ目立つ昔ながらのレコード店がある。
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岩井レコード店 太平洋戦争終戦の翌年昭和21(1946)年に開業した。しかし同じ年の12月21日に南海大震災による大津波の被害をうけ、商品は流され店内には大きな流木が横たわっていたそうだ。

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店主は大被害にもめげず再びレコード店を開業した。小さくシンプルな看板が目を引く。
店舗自体は昭和初期の造りで、外壁は板張り、軒先の棟瓦は3層から4層に積まれ漆喰で固められている。二階の黒い部分は大戦中に空襲を避けるために塗られたものだろう。

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玄関の大きなガラス張りの引き戸を開けて店内に入ると、中央の一段高いところにグランドピアノが置かれ、左右には懐かしいレコード(非売品)を陳列している。

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店舗の奥に置かれた木製の棚。 「最初はこの棚にSP盤のレコード盤を入れて、顧客には実際に聴いてもらってから売っていました」 店主はついこの間のことのように話してくれた。

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青年団と一枚の油絵 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷乙 須崎市立吾桑公民館の一室に、メロンなど果物を描いた一枚の油絵が掛けられている。                  (クリックすると大きな画像が表示されます)

作者は洋画家の高橋虎之助 明治23(1890)年に現在の高知県高岡郡日高村に生まれ、高知県立農林学校(現 高知農業高校)を卒業後上京、太平洋画会研究所に入門し1923年から2年間ヨーロッパへ留学。戦後は太平洋美術会の会長として、90歳を過ぎても作品の制作に取り組んでいたが、昭和59(1984)年に93歳で亡くなった。

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裏には、「果物 高橋虎之助 筆 中平兵庫助元忠の墓に 寄せらるゝご厚意を子孫として感謝しこゝに父 高橋虎之助の筆になる画を(呈?)します 昭和丗二年五月 中平康 吾桑青年團 御中」と、書かれている。

贈り主の中平康(なかひらこう)は、高橋虎之助の子として大正15(1926)年に旧東京市滝野川区に生まれ、母方の中平姓を継いだ。中学校時代から映画に熱中し、映画界ではモダン派と呼ばれる映画監督になった。「狂った果実」など多くの代表作を残し、土佐の絵師金蔵(絵金)を描いた「闇の中の魑魅魍魎」も完成させたが、昭和53(1978)年52歳の若さで亡くなった。

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須崎市吾井郷乙尾殿 県道388号線(旧国道56号線)沿いに、中平兵庫助元忠の墓がある。
中平兵庫助元忠は、津野家11代 之高(ゆきたか)の長男 常定から始まる分家の三代目で、津野家一の戦闘軍団を持ち、尾殿畴田(うねた)城を戦時の城としていた戦国武将だった。元亀3(1572)年78歳で死去した。墓は100年以上後に曾孫の道晃比丘が延宝7(1679)年に建立した。 中平家は須崎地域で最古の1000年を越える名門として知られている。

墓の斜め後にはもう1基の石柱があり、左側面に「昭和五年十月之ニ建」、裏面に「中平兵庫助元忠之墓標 是ヨリ下四米」、右側面に「吾桑村青年團」と刻まれている。

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要約すれば、祖先の墓を守ってくれている青年団に感謝し贈り物をした美談である。

青年団のルーツは室町時代には存在し、江戸時代には村の生活組織と密着した自然発生的な集団であった。明治初期には自由民権運動の影響もあり、全国へ青年組織の結成が広まっていったが、明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として各種国家事業にも動員された。大正時代には青年団および処女会(女子青年団)となるが、昭和に入り青年団も国策への協力を余儀なくされ、戦局の悪化に伴い学徒隊に編入された。戦後は青年団を社会教育関連団体として位置づけ、活動も社会教育的な面が大きくなったが団員数は減少し続け、社会における青年団のウエイトも低下していった。

須崎市にも各地区に青年団があった。市制施行後は各団が集まり、須崎市連合青年団(後の須崎市青年団体連絡協議会)を組織化し、地元の行事や奉仕活動などに盛に取り組んだが、昭和時代の終わりとともに消滅していった。

吾井郷天満宮 古屋竹原の絵馬 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷甲 吾井郷天満宮に古くから伝わる 古屋竹原の絵馬  (須崎市教育委員会保管)                      クリックすると大きな画像が表示されます。

絵馬の題名は 「酒呑童子」 (しゅてんどうじ)。木の種類はわからないが一枚板に描かれている。絵馬全体の大きさは幅約125cm、高さ約77cm。
右上に杯を持って下界を見下ろす酒呑童子、左には行者のような5人の人物、中央下には行者に気づいた洗濯をしている女性が描かれている。梅花を得意としていた古屋竹原の作品の中では希少な存在とされている。 

作者 古屋竹原=ちくげん(実名 良材=よしき)は、天明8(1788)年に大野見郷竹原(現 中土佐町)に生まれ、14歳のときに江戸に出て絵を学び、大坂(大阪)で医術を学び帰郷後、廿代町(現 高知市)で漢学塾を開いた。
35歳のときから須崎古市町(現 須崎市)に居住し文化人の中心的人物となった。「竹原の梅」 と言われるほど梅花の絵を得意とし、また幕末の志士 間崎滄浪とも親交があったが、文久元(1861)年に没す。

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裏面には、「天保九年戊戌九月八日 御上使御通行ニ付 郷中立願成就 五月廿八日御通行」 と書かれ、下には山崎八右衛門、喜蔵、喜傳次、新右衛門ら計39名の名前が書かれている。
御上使とは上意伝達のために派遣された使者のことで、使者が地元を無事通過したことを祝い、山崎八右衛門らが吾桑天満宮に奉納したとされている。

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なお、表面右には 「天保戊戌秋日 古屋梁」 と記されている。古屋竹原は梁を含め数種類の雅号を持っていたためで、厳密には 「古屋梁の絵馬」 とするのが正しいのかも知れない。

カーブに沿った家 森岡家住宅 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市中町1丁目 T字交差点のカーブに沿って南東角を丸くした家がある。
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現在は空家となり詳細を知るすべも無いが、一説によれば平屋部分は明治時代初期に流行した商店の造りで、築後約100年を経過しているとも言われている。二階部分は後年増築されたそうで、確かに二階部分と平屋部分とでは瓦が異なる。

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側溝、壁、窓、軒、瓦まで、全てが綺麗な弧をなしている。そればかりか注意してみると、窓部分の敷居や鴨居、ガラス戸や雨戸までもが同じく緩やかに曲がっている。
海岸沿いの須崎には昔から木造船を作る船大工がいて、こうした曲線を出す技術も船大工由来のものかも知れない。

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撮影中も車が引っ切り無しにカーブをスムーズに曲がって走って行く。道路にあわせて家を建てたのか、家にあわせて道路が出来たのか分からないが、将来の車社会を見越していたとしか思えない。

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西側から見ると、二階部分の豪華な瓦屋根が光っていた。屋根の重量に耐えるためなのか二階は南側だけにしか窓がない。また平屋部分は一部が大きく陥没して傷みも相当激しいようだ。

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