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須崎工業学校 生徒による震災の記録 [資料・須崎市]

 高知県須崎市 昭和21(1946)年12月21日午前4時19分過ぎ、紀伊半島沖78kmを震源とするM8.1の地震が西日本一帯を襲った。
 これは昭和南海震災を当時の須崎工業学校(現高知県立須崎工業高等学校)の自然科学班の生徒らが撮影した貴重な記録写真である。
 <以下の画像の著作権は全て高知県立須崎工業高等学校にあります。また公表するに際しては同校からご快諾をいただきました>  (クリックすると大きな画像が表示されます)

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浸水した角谷地区、中央は土佐新荘駅
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中町付近の崩壊寸前の倉庫
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路面がひび割れた川端通り
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落ちた漆喰壁
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池ノ内付近の落ちかけた橋
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浜町や横町では家の倒壊により11名の圧死者を出した。全壊家屋は130余戸、津波による流失家屋は40余戸に達した。
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倒れた須崎八幡宮の石垣
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津波が押し寄せた新町 旧桟橋付近
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新町 製氷工場
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駅前や原町地蔵堂付近では逃げ遅れた避難民が、秒速2.5mに及ぶ潮流に抗したが、水深2m余りの中、40余名の犠牲者が出た。
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港町 新桟橋に打ち上げられた船
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須崎駅前付近では火災が起こった。昼頃になって、堀川の水底から数人の死体が発見された。
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須崎市の被害は死者・行方不明61人、負傷者140人、家屋の全半壊833戸、流失253戸、浸水1,328戸、焼失9戸、船舶流失683隻に及んだ。
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須崎駅北端
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須崎駅構内 客車に高さ2.2mの津波の痕が残っている。
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民家に残された津波の痕跡2.2m
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津波の痕跡2.0m
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流れ着いた屋根
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基礎からずれた家屋
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生垣に残った津波の痕跡
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津波第一波が高さ3m以上で襲来した。須崎湾の最北端桐間堤防はたちまち決壊し、潮先は神田まで達し、20分おきに6、7回も繰り返した。
妙見山か見た旧多ノ郷小学校 〇印
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旧多ノ郷小学校前
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平野は海原と化した。復旧の結果、3日後には多ノ郷信号所まで列車が通れるようになった。多ノ郷信号所が仮駅となり、土讃線下りの乗客はここで降りて、おし舟で大間に渡った。
流された土佐石灰大峰引込線の線路 ×印
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田畑も流失し、線路は飴のように曲がった。
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土崎町付近の線路
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大間本町付近
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山手町付近
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大間西町付近
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犬戻り付近の津波の痕跡
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出典 南海地震津波による高知県須崎町付近の災害記録(須崎工業学校自然科学班)
    四国災害アーカイブス (一社)四国クリエイト協会 

絵葉書から 鉄道開通当時の須崎駅周辺 [資料・須崎市]

 現JR土讃線は大正5(1916)年に実測調査に着手し。須崎港から資材を陸揚げし大正13(1924)年3月30日に、須崎と日下までの25.0kmで営業運転を開始した。
 その直後に発行されたと思われるこの絵葉書のタイトルは「鉄道開通日日発展の須崎港全景(其一)」 其一から四までの4枚組で、西は角谷地区にまで及ぶパノラマになっている。

 
 全体を見ると、南半分は陸地というよりも潮の引いた砂浜のように見える。南側の波打ち際には石が並べられ、これから埋立て工事が始まるようだ。
                             (クリックすると大きな画像が表示されます)

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 須崎駅周辺を拡大し見ると駅構内の線路の配置は、左の貨物引込み線のほかは現在とほぼ変わらないように見える。駅舎はまだ小さいが駅前の町は形作られ、すでに数多くの商店などがあり人通りも賑やかそうだ。左下の船だまりは現在よりも西に位置していたようだ。

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 続いて右(東側)を見ると右端に桟橋が見える。桟橋から駅へ線路と思われる一本の筋が見えることから、この桟橋へ機関車をはじめ多くの資材が陸揚げされ駅の方へ運ばれたことだろう。その手前では港の浚渫をしている様子が見える。

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義勇艦隊 櫻丸 廻航記念 [資料・須崎市]

高知県須崎市 現在の西町から南古市町辺りを海から撮った、大正初期と思われる富士が浜の風景。左下には義勇艦隊櫻丸廻航記念の紫色のスタンプが押されている。
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儀勇艦とは通常時は一般商船として運用し、有事には武装を施し軍艦として使用された。 櫻丸はその一号艦で、当時としては最新鋭の蒸気タービンエンジン3基をを搭載し、明治42(1909)年に台湾航路に就航した。大正6(1917)年には白洋汽船に売却され五洋丸と改名された。

絵葉書には(土佐須崎風景)櫻丸歓迎員休憩所とある。浜には日の丸が立てられ奥には家屋も見られるが、元々あったものか臨時に建てられたものかは分からなが、沖に停泊する本船から乗組員が上陸し歓待されたことだろう。

須崎高等小学校女子部 昭和4年度卒業記念帖 [資料・須崎市]

高知県須崎市 明治25(1892)年に高岡郡第二高等小学校を改称し須崎高等小学校が発足したが、明治27(1894)年9月暴風雨のため校舎が倒壊し翌年解散した。しかし、入学志望者が増加したため 須崎、吾桑、多ノ郷、新荘、上分の一町四カ村の組合立高等小学校として再出発し、明治33(1900)年4月に鍛治町(現NTT西日本須崎電話交換所)に開校した。

須崎高等小学校女子部 昭和4(1929)年度卒業記念帖 現在の卒業アルバムである。
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表紙をめくると教育勅語、詔書とつづく

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2ページ目も国民精神作興に関する詔書

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校舎全景 画像右下に正門の門柱が見える。

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職員 19名中女性職員は4名

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卒業生 昭和4年当時の高等小学校の修業年齢は2年間で、現在の中学校1,2学年に相当するため、このアルバムの卒業生は大正4年度生まれ。

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第六学級家事授業 現在の家庭科の授業風景。

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第七学級算術授業 生徒は総じて髪が長く、束ねるか三つ編みにしている。

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第六学級図画写生 

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第七学級校外集合 服装はセーラー服の一人を除き、全員が着物姿で足袋と下駄をはいている。

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塗家造り 三浦商店 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市青木町 三浦商店 天然の良港に恵まれた須崎は近隣の物資の集散地として栄え、三浦商店は戦前コウゾ、ミツマタなど和紙の原料や製品を商い、朝鮮にまで船を出していたという。                       (クリックすると大きな画像が表示されます)

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建築は大正時代中期と言われ、木造二階建て*塗家造りで高知県では代表的な商家建築と評価されている。

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築後約100年、台風の通り道にあり風雨にさらされ、南海大震災にも遭ったが大きな損傷も無く、現在も独特の重量感を見せている。

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一二階とも三層になったやたら分厚い漆喰の高い軒がせりだして建物の周囲を巡っている。

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一階の天井は高く開放感があり、漆塗りと思われる格子天井になっている。

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二階は後期には住居に使われていたようで部屋の間には納戸があり、襖の裏張りには明治30(1897)年代の三浦商店用紙が再利用されていた。

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一階事務所は取り払われているが、戦後になって株取引もされていたようで、一段上がった台に設置された大黒板が華やかし時代を忍ばせている。

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一階裏の金庫室には2台の大型金庫が組み込まれ、豪商の名残をとどめている。また床は深く掘られコンクリートで固められた上に格子状の床板がはめ込まれている。

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天井裏のような金庫室2階には出窓があり、開放することにより湿度を調節していたようだ。

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現在、三浦商店は隣接する三浦家住宅とともに須崎市が管理し、平成26年度には長期保存への補修工事が予定されている。

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*塗家造り  木造商家の防災構造として広く普及している様式。漆喰で壁を塗り固めるところからこの名がある。一般には白色だが煤を混ぜて黒色に、また紅殻(ベンガラ、インドのベンガル地方で出土)を入れて赤くすることもあった。(出典 土佐の名建築 高知新聞社刊)

としごひのまつり 安和天満宮春祭 [行事・須崎市]

高知県須崎市安和 須崎市の西南端に位置し、約330世帯750人のこの地区で、2月23日に安和天満宮の春祭が執り行われた。     (クリックすると大きな画像が表示されます)

正式名称は祈年祭(としごひのまつり)弓祭と言われ、古くは旧暦の正月25日だったが、現在では2月の最終日曜日に執り行われている。最初に境内で神官によるお払いのあと、射手がひしゃくを手に持ち巫女が神前を回る。

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社殿内では祝詞奏上とともに、供物や玉串をささげて、厄をよけ、春の農耕の開始に当たって天候の順調、五穀の豊作、心身健康、国家の安泰などを神に祈る神事が執り行われる。

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場所を境内に移し弓祭が執り行われる。射手は五命(ごみょう)さんと呼ばれ、神様の土地を持っている人に限られている。5人が各々12本(うるう年は13本)の矢を射る。

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的の周囲の留め具も平年は12ヶ所だが、うるう年には13ヶ所を留める。
最後に弓道の経験のある神官が模範を披露し、今年の春祭も無事に終った。

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空撮須崎今昔 吾桑・多ノ郷 [資料・須崎市]

高知県須崎市 正確には須崎市発足以前の5ヶ町村だった昭和22(1947)年10月11日 米軍機によって高度2438mから撮影された航空写真。
                             (クリックすると大きな画像が表示されます)

 吾桑(当時の高岡郡吾桑村)の画像。中央を斜めに蛇行する桜川に両岸には一面の水田が広がる。水田の東側(写真では右)を国鉄(現JR)土讃線が走り、西側の山際を撮影後の昭和28(1953)年に国道に指定された国道56号線が走る。
 画像上部の三叉路のある付近が吾桑村中心部の小浜集落。その左側には桑田山集落へ上がる蛇行した道路が見える。上部右へは畔の川集落の谷が延びる。また山の斜面には高いところまで段々畑が作られている。
 画像中央部の道路が山に沿って曲がった辺りが尾殿集落。そこから塩九升越(さくじゅうごえ)の坂を通り、画像中央下部の岩永集落に至る。

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 そして現在、JR線は変わらないが、国道56号線はバイパスが新道となり、従来道は県道388号線になった。水田の多くは区画整理され施設園芸のハウス群も見える。
 山間にも道路が整備され所どころ開発もされているが、段々畑は姿を消してしまった。画像下には朝ヶ丘中学校、多ノ郷小学校が見え、左下は多ノ郷東川内の集落と団地。
(出展 画像Ⓒ2014 Cnes/Spot Image.DigitalGlobe.TerraMetrics.Google)

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 多ノ郷(当時の高岡郡多ノ郷村)の画像。前述の吾桑の南側に位置する。画像上部中心から左下に延びる直線が後の国道56号線。当時は須崎湾の海岸沿いに走り須崎駅前を通っていたが、後年になり画像左下の鳥越坂を抜ける新道がつくられた。
 右上から左下の海岸沿いに大きくカーブするのが国鉄土讃線で、途中の多ノ郷駅から土佐石灰の引込み線が分岐して大峰(だいぼう)岸壁から石灰石が船積みされていた。
 左右には水田が広がるが、画像中央の桐間(きりま)は撮影の前年、昭和21(1946)年12月21日の南海大震災の津波で堤防が決壊して海水が流入している。また桐間の左には2隻の中型船が見える。
 画像上部には当時の多ノ郷小学校があった現在の赤崎町、道路を挟んで右側が、現在の西崎町、妙見町、土崎町。左側中ほどには多ノ郷の中心地だった大間の集落があり、左下には営林署の庁舎や官舎、市営住宅の長屋群が見える。

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 66年を経過した現在、かつての水田は周辺にわずかを残し住宅や商業施設に姿を変えた。堤防が復旧され水田に戻った桐間も、調整池を残し埋め立てられ商業施設が増えてきた。画像右下は昭和36(1961)年から操業を始めた住友大阪セメント(当時は大阪窯業セメント)高知工場。
 画像上部左には施設園芸の大型ハウス群が見える。中ほどの須崎工業高校から大間本町、大間西町、山手町と住宅街が続き左下は須崎市役所庁舎。
 道路事情も大きく変わり、国道56号線は鳥越坂を抜けるルートに変更後、現在は高知道(高速道路)と併走するバイパスに再度変更された。JR線は大間駅が昭和35(1960)年に開業、多ノ郷駅からの引込み線は平成4(1992)年10月に廃止その後に撤去された。
(出展 画像Ⓒ2014 Cnes/Spot Image.DigitalGlobe.TerraMetrics.Google)

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開戦前夜 須崎湾の連合艦隊 [資料・須崎市]

高知県須崎市 須崎湾は風光明媚なことから錦浦(きんぽ)とも呼ばれ、古くから天然の良港で漁港や避難港として利用されてきた。
 この写真は旧日本海軍が寄港したときの一枚で、匿名を条件にお借りすることができた。
 写真左から、コウギノ鼻、大長岬、戸島(へしま)の島影が見え、左端に旗艦と思われる1隻の軍艦が停泊し6隻の潜水艦が見える。上空の細かな点は祝砲の煙だろうか。右には軽巡洋艦や駆逐艦らしき20隻ほどが見える。このうち艦影から球磨型軽巡洋艦と吹雪型駆逐艦4隻は確認できるが他の艦船はわからない。  (クリックすると大きな画像が表示されます)

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 撮影場所は写真の位置関係から須崎市安和領久東鼻付近のようだ。撮影年月は*資料に「昭和16(1941)年1月3日、第4艦隊司令長官高須四郎中将が旗艦鹿島に乗り、数十隻の軍艦が須崎港を圧していた。(中略)1月6日潜水艦8隻、母艦1隻これに加わる」 との記述と写真を重ね合わせて昭和16年1月と推測できる。
 第4艦隊は南方警備が主任務だったようだが、同じ16年12月8日には真珠湾攻撃が行われ泥沼の戦争へと突き進んで行った。
 出典 *須崎史談104号 岡村歌富氏「土佐沖に来た軍艦」
 

吾井郷 天満宮秋季例大祭 [町歩き・須崎市]

高知県須崎市吾井郷甲 吾井郷天満宮の秋季例大祭は毎年11月23日に執り行われている。
(クリックすると大きな画像が表示されます)

吾井郷天満宮は吾井郷甲もず谷に鎮座し菅原道真を祀っている。創建は棟札銘から文治4(1188)年の建立と見られ、寛文11(1671)年に京都白川天満宮を勧請して再建し、大正4(1915)年には吾井郷の各神社を合祭した。

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社殿で神様に御神輿に乗っていただき、棒ねり踊りの子供らを先頭に警護のハナ(天狗面)、旗、御神輿、神官、金幣(きんぺい)、太鼓、、巫女、供物を入れた長持ち、色旗、槍、と続く。

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一行は急峻な石階段の坂道を下り、鳥居をくぐりJR線の踏切をわたり御旅所へと向かう。

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御旅所は四方の柱に天満宮の梅紋の入った天幕が張られ、御神輿が納められたあと神事が執り行われる。巫女による浦安の舞が奉納され、棒ねり踊りの子供たちは踊りながら御旅所を反時計回りに数回まわる。

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棒ねり踊りは、先頭を乳児を抱いた父親が指揮を執りながら歩き、幼児から小学校6年生までの児童が後に続く。抱かれている乳児には紙製の兜が用意され、幼児はカスリと染めの衣装に白たすき、烏帽子に白鉢巻姿で手に薙刀(なぎなた)を持つ、化粧を施し鼻筋を白く目尻を赤く塗っている。

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小学生は濃紺の七分袖の服に同色の帯を締め、同色の手甲、白鉢巻に白たすきの衣装。「ヨッオイヨイ ヨッオイヨイ」と掛け声を掛けながら歩き、指揮に従って二人一組で棒を組み合わせながら、棒ねり踊りを奉納する。

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警護のハナ(天狗面)は現在は阿吽の一対のみだが氏子の話によると「昔はもっと多かった」らしい。また棒ねり踊りも児童数が多かった時代には、出たくとも順番が来なかった思い出話も聞くことができた。

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御旅所での神事が終了すると一行は坂道を登り、御神輿が社殿に納められて秋季大祭は幕を下ろす。

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火の用心 夜警用照明具(提燈) [資料・須崎市]

 高知県須崎市山手町 須崎消防団本部の一室に須崎消防組の組旗(本ブログ 須崎消防組 組旗 参照) とともに夜警用の照明具が保管されている。
                             (クリックすると大きな画像が表示されます)

 この照明具は昭和10年頃に消防の夜警用に使用されていたようで、須崎市内の某氏が消防資料として須崎市消防団へ寄贈されたもの。高さは取っ手を含めて約34cm 直径は約12cm。取っ手、笠、底、裏蓋はブリキ製で、照明部分は麻のような生地にニカワ状の樹脂を塗っているように見える。

 正面には朱枠で囲まれた須崎消防後援會の文字が書かれ、裏面は扉が取り付けられている。扉には取っ手とは別に自転車に取り付けられるようにフックがある。

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 正面に向かって左側には火の用心。同じく右側には第三十一號と朱書きされている。1からの番号とすれば少なくとも31個存在したことになるが、他に実在するものが無いので個数は定かではない。

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 裏蓋をゆっくり開けると、底の中心にはロウソク立てがあり、周囲には溶けたロウソクやマッチの軸が落ちていて往時をしのばせる。また底が直接床に接しないように三つ足が付けられ、細部まで心配りがなされている。

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